2012年09月11日
天下分け目の地 関ヶ原を歩く
死闘を繰り広げた合戦の地
戦国合戦の地 関ヶ原を歩く
天下分け目の地関ヶ原史跡めぐり
関ヶ原町歴史民俗資料館
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 519
合戦に関する武具や 「関ヶ原合戦図屏風」などを展示 合戦の流れがわかる
大型ジオラマは必見だ
隣接するミュージアムショップでは 武将グッズや土産品を販売 レンタサイクル
受付中
2012年9月6日撮影

戦国合戦の地 関ヶ原を歩く
天下分け目の地関ヶ原史跡めぐり
関ヶ原町歴史民俗資料館
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 519
合戦に関する武具や 「関ヶ原合戦図屏風」などを展示 合戦の流れがわかる
大型ジオラマは必見だ
隣接するミュージアムショップでは 武将グッズや土産品を販売 レンタサイクル
受付中
2012年9月6日撮影

戦国合戦の地 関ヶ原を歩く
資料館入り口前の中庭に展示中の鬼瓦 近隣の寺社の物のようだ?・・・・・

国史跡(昭和6年3月30日指定)
徳川家康最後の陣地
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 454
戦がたけなわとなると 家康は本営を桃配山から笹尾山の東南一キロのこの地
に進出させました
ここで 家康は陣頭指揮に当たるとともに 戦いが終わると 部下の取ってきた
首を実験しています 周囲の土塁や中央の高台は 天保十二年(1841)に幕府
の命により この地の領主竹中家が築いたものです

田中吉政 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 396
ここから松尾山の石田隊に向かって兵をすすめた 田中吉政の隊が布陣した場所
吉政は 石田隊の右翼 蒲生郷舎と戦った説もある 最後 敗走した石田光成を
捕えたのも 吉政である

国史跡 (昭和6年3月30日指定)
東首塚
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 254
朱色の門を抜けると 奥にスダジイの大木がそびえたつ 合戦後 戦死した兵士
たちを 東首塚と西首塚 2か所に埋葬したと言われる 埋められている戦死者
の数は定かではない


松平忠吉
井伊直政 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 226
東軍先鋒は福島隊と決まっていたが 福島隊の静止を振り切って宇喜多隊へ
発砲したのが松平・井伊隊 その後 島津隊を追撃して大きな戦果を挙げるが
2人とも大けがを負ってしまう

本田忠勝 陣跡
阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 072 753
三方ヶ原・長篠の合戦で数々の功を上げた本多忠勝 勇猛なだけではなく 知略
も備えた名将だ 関ヶ原合戦では軍艦として参戦 島津隊へ進撃し 西軍武将の
切り崩しにも努めた

本多忠勝の陣跡は民家の庭先を入った奥にある

藤堂高虎・京極高知 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 071 661
藤堂高虎・京極高知の両隊は 福島隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として
進軍 開戦後は不破関跡付近まで進撃し 平塚為広と交戦した 現在 碑は
関ヶ原中学校の敷地内に建っている

最初地図ではここら辺と思いつつも学校の中に入るのはちょっと躊躇したが
恐るおそる入ってみると校庭の中に碑が立っていた

西首塚
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 071 814
当時の領主・竹中重門が 家康の命令により兵士たちを埋葬した地 現在は
小さい塚だが 当時はかなりの規模だったと言われている 手前の御堂には
千手観音と馬頭観音が安置されている

R21号線沿いにある

岡山(丸山)烽火場
関ヶ原の戦いの時 この山頂には長政と重門が陣を敷きました
霧も晴れ上がった午前八時頃 ここから狼煙があげられ 東軍
諸隊に攻撃の合図が出されたのです 同時に 西軍が陣取る
笹尾山 北天満山にも狼煙が立ち昇り 東西両軍は一斉に 正面
の敵との戦闘を開始いしました
黒田長政・竹中重門 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 865
戦況を把握しやすい高台に陣を置いた 黒田長政と竹中重門 戦機を見てここ
から烽火を挙げた 竹中は 合戦当時の関ヶ原の領主に当たる 現在は 山頂
から関ヶ原を一望することができる

・・・・・・ここまでの分中解説 関ヶ原合戦史跡めぐり観光パンフレットから抜粋・・・・・・
資料館入り口前の中庭に展示中の鬼瓦 近隣の寺社の物のようだ?・・・・・

国史跡(昭和6年3月30日指定)
徳川家康最後の陣地
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 454
戦がたけなわとなると 家康は本営を桃配山から笹尾山の東南一キロのこの地
に進出させました
ここで 家康は陣頭指揮に当たるとともに 戦いが終わると 部下の取ってきた
首を実験しています 周囲の土塁や中央の高台は 天保十二年(1841)に幕府
の命により この地の領主竹中家が築いたものです

田中吉政 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 396
ここから松尾山の石田隊に向かって兵をすすめた 田中吉政の隊が布陣した場所
吉政は 石田隊の右翼 蒲生郷舎と戦った説もある 最後 敗走した石田光成を
捕えたのも 吉政である

国史跡 (昭和6年3月30日指定)
東首塚
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 254
朱色の門を抜けると 奥にスダジイの大木がそびえたつ 合戦後 戦死した兵士
たちを 東首塚と西首塚 2か所に埋葬したと言われる 埋められている戦死者
の数は定かではない


松平忠吉
井伊直政 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 226
東軍先鋒は福島隊と決まっていたが 福島隊の静止を振り切って宇喜多隊へ
発砲したのが松平・井伊隊 その後 島津隊を追撃して大きな戦果を挙げるが
2人とも大けがを負ってしまう

本田忠勝 陣跡
阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 072 753
三方ヶ原・長篠の合戦で数々の功を上げた本多忠勝 勇猛なだけではなく 知略
も備えた名将だ 関ヶ原合戦では軍艦として参戦 島津隊へ進撃し 西軍武将の
切り崩しにも努めた

本多忠勝の陣跡は民家の庭先を入った奥にある

藤堂高虎・京極高知 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 071 661
藤堂高虎・京極高知の両隊は 福島隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として
進軍 開戦後は不破関跡付近まで進撃し 平塚為広と交戦した 現在 碑は
関ヶ原中学校の敷地内に建っている

最初地図ではここら辺と思いつつも学校の中に入るのはちょっと躊躇したが
恐るおそる入ってみると校庭の中に碑が立っていた

西首塚
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 071 814
当時の領主・竹中重門が 家康の命令により兵士たちを埋葬した地 現在は
小さい塚だが 当時はかなりの規模だったと言われている 手前の御堂には
千手観音と馬頭観音が安置されている

R21号線沿いにある

岡山(丸山)烽火場
関ヶ原の戦いの時 この山頂には長政と重門が陣を敷きました
霧も晴れ上がった午前八時頃 ここから狼煙があげられ 東軍
諸隊に攻撃の合図が出されたのです 同時に 西軍が陣取る
笹尾山 北天満山にも狼煙が立ち昇り 東西両軍は一斉に 正面
の敵との戦闘を開始いしました
黒田長政・竹中重門 陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
マップコード 242 101 865
戦況を把握しやすい高台に陣を置いた 黒田長政と竹中重門 戦機を見てここ
から烽火を挙げた 竹中は 合戦当時の関ヶ原の領主に当たる 現在は 山頂
から関ヶ原を一望することができる

・・・・・・ここまでの分中解説 関ヶ原合戦史跡めぐり観光パンフレットから抜粋・・・・・・
Posted by jichan at 22:24│Comments(0)
│名風景
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