2011年06月01日
治水神社
治水神社
宝暦治水工事の責任者、薩摩藩家老平田靭負を祭神とする治水神社

宝暦治水工事の責任者、薩摩藩家老平田靭負を祭神とする治水神社

治水神社

宝暦治水由緒書
昔この地方は木曽三川に囲まれ 木曽川より長良川揖斐川と それぞれ1メートル
余り川底の差があり低くなっていた その為 土地の低い美濃側は絶えず水害を被り
徳川時代 特に慶長から宝暦にかけては毎年氾濫して 治水工事の嘆願が続きつ
いに幕府は宝暦3年(西暦1753年)12月25日 西国の雄藩薩摩藩にお手伝い方
を命じた
当時借財に苦しんでいた薩摩藩ではあるが藩の存亡を懸けその命に従うこととなった
総奉行に平多靭負正輔を任じ年が明けて1月21日江戸より 次いで29日には薩摩
より総勢947名を出発させた 途中大阪で工事費を調達し2月27日四の手にわかれ
て工事に着手 水との苦闘は難工事の連続 その上度重なる洪水に工事費ははるか
に超過し 幕府側の迫害や侮辱 工事の邪魔等に耐えかねて 自決したもの53名
疫病の流行で病没33名にも及んだ 総奉行は藩主 重年公に行事竣工の報告を副
奉行に託し 全責任を負って宝暦5年5月25日享年52才でこの世を去った
幕府の命令とはいえ3百里も離れた異郷の地を水害苦難から救った薩摩藩の人達の
血と汗と涙の結晶は 今もこの地に語り継がれて薩摩義士の偉業として称えられる
大治水事業であった
この治水神社は平多靭負を祭神とし その時亡くなられた八十余名の方々をお祀りして
感謝の誠を捧げ願望成就の神として崇敬されている (治水神社看板より)

木曽三川公園入口の道路を挟んですぐ左が治水神社となっている

先日のブログにもアップした木曽三川公園のタワー この左側が治水神社


宝暦治水由緒書
昔この地方は木曽三川に囲まれ 木曽川より長良川揖斐川と それぞれ1メートル
余り川底の差があり低くなっていた その為 土地の低い美濃側は絶えず水害を被り
徳川時代 特に慶長から宝暦にかけては毎年氾濫して 治水工事の嘆願が続きつ
いに幕府は宝暦3年(西暦1753年)12月25日 西国の雄藩薩摩藩にお手伝い方
を命じた
当時借財に苦しんでいた薩摩藩ではあるが藩の存亡を懸けその命に従うこととなった
総奉行に平多靭負正輔を任じ年が明けて1月21日江戸より 次いで29日には薩摩
より総勢947名を出発させた 途中大阪で工事費を調達し2月27日四の手にわかれ
て工事に着手 水との苦闘は難工事の連続 その上度重なる洪水に工事費ははるか
に超過し 幕府側の迫害や侮辱 工事の邪魔等に耐えかねて 自決したもの53名
疫病の流行で病没33名にも及んだ 総奉行は藩主 重年公に行事竣工の報告を副
奉行に託し 全責任を負って宝暦5年5月25日享年52才でこの世を去った
幕府の命令とはいえ3百里も離れた異郷の地を水害苦難から救った薩摩藩の人達の
血と汗と涙の結晶は 今もこの地に語り継がれて薩摩義士の偉業として称えられる
大治水事業であった
この治水神社は平多靭負を祭神とし その時亡くなられた八十余名の方々をお祀りして
感謝の誠を捧げ願望成就の神として崇敬されている (治水神社看板より)

木曽三川公園入口の道路を挟んですぐ左が治水神社となっている

先日のブログにもアップした木曽三川公園のタワー この左側が治水神社

Posted by jichan at 23:00│Comments(0)
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